2026/01/30(金)
天ぷらが好きだ。
最近天ぷらについて思うことがある。
天ぷらは料理ではない。
なぜなら料理とは、本来「完成」という状態を前提にして語られるものだからだ。
しかし天ぷらには完成が存在しない。
あるのは、完成しつつ同時に崩壊していく過程だけである。
揚げられた瞬間、天ぷらは最も天ぷらであり、
同時に、すでに天ぷらではなくなり始めている。
この自己否定を内包した存在様式こそが、天ぷらの本質だ。
衣とは何か。
それは覆いであり、隔たりであり、媒介である。
素材を守るために存在しながら、素材そのものになってはならない。
主張すれば失敗、消えれば不在。
衣は「あるが、ない」状態を強制されている。
量子論的存在と言って差し支えない。
揚げ油は時間である。
温度とは流れの速さであり、
高すぎれば存在は破壊され、
低すぎれば意味が生成されない。
適温とは、世界が一瞬だけ許す均衡点だ。
ここで重要なのは、天ぷらが再現できないという事実だ。
同じ素材、同じ油、同じ条件を揃えても、
同じ天ぷらは二度と現れない。
これは偶然ではない。
天ぷらが「個体」ではなく「事象」だからである。
つまり天ぷらとは、
存在ではなく出来事であり、
物質ではなく現象であり、
記憶としてのみ安定する。
冷めた天ぷらを見て「これは天ぷらだ」と言うのは、
死体を見て「これは生物だ」と言うのに等しい。
形は残っているが、核心はすでに去っている。
天ぷらは常に「今ここ」にしか存在できない。
天ぷらを弁当に入れた瞬間、
我々は無意識にこう言っている。
「天ぷらであったもの」と。
それでも人は天ぷらを揚げる。
失われると分かっていながら、
一瞬で消える価値のために油を温める。
これは非合理だ。
だが非合理こそが、人間の証明である。
結論として、
把握できないものを、理解したふりで口に運ぶ行為そのものこそ
天ぷらという概念といえるだろう。
理解できなくていい。
むしろ理解しようとした時点で、
天ぷらはもう、そこにはない。